お花見
金魚すくいの金魚たちを見つめてた
尾びれがゆらゆら
口がパクパク
すい面がぷくぷく
わたしの心の水面の波と似てるなあ、と感じならが見惚れてた
なんだろうな、この安心感
お腹が水面に浮いていて、死にかけてる金魚がひとり
金色のこのお腹は白色
それでもまだ呼吸をしている
店番の人に声かけても、きっとこの子が助かることはないだろうな、と思って進撃の巨人の巨人みたいに(実際に巨人か)その子を上から見つめていた
見つめて色々感じていた
金魚すくいはしていない
なんてタチの悪い客なんだ
…そういえば、わたしが初めて飼ったのはハムスターではなく金魚だったことを思い出した
小学低学年の時、学校の夏祭りで金魚すくいをしてもらった子が年々ひとりずつ増えてゆき、最終的には4匹を中学上がる頃まで家で飼っていたことを思い出した
水槽の掃除は苦手だったが、飼われた金魚たちはわたしの部屋に置かれてぷかぷかすいすい
ひとりっ子のわたしは淋しくはなくて、よく天井を見上げてるかお口パクパクの金魚を眺めてるかをぼーっと見つめているタチの悪い少女だった
金魚は見てると心がスーッと平穏になる
何も考えなくなる
だけどわたしは魚の気持ちが分からない
キョロキョロしてる大っきいお目メと、綺麗なヒレと、排出物が体から出てる様子と、それの長さの観察、そしてそれを餌と間違えて食べてオエッて吐き出すのを繰り返してるアホでバカっぽくて、何考えてんだろうって思いながら…陽が差すと体の鱗がキラキラ綺麗なその子たちに精神をよく持っていかれていた
わたしは本当にタチの悪い子供で残忍だった
小学生のときハマっていた遊びが、
「砂場にある砂は元は全部海なんだって」
って教えてくれたお友達さんの言葉をまんまと真に受けてずっと砂から貝殻を探ったり…(本当にたくさんあった)
虫が怖くなかったから、バッタや蝶々をよく捕まえてはムリヤリ草を食べさせたり、脚を引っこ抜いたりと…残忍なクソガキだった
とても気になった
どんな動きをするのか、どんな感情を持ってるのか、痛がるのか、声を出すのか、声はどんな声をしているのか、わたしから逃げるのか…
死なせたくはなかったから、よくそんな事をしては周りの大人に冷ややかな目線で注意されていた
今で言うと、完全な動物虐待だったと思う
今ではそういう感情はないが、たまに虫が仰向けになって足をバタバタしていたり、カメムシが沢山壁にくっついてたり、蛾が明るい灯火に1点集中で集っているのを見ると、なんかそういうことを考え出す…(森羅万象?について的などうしようもない事)
蝶々は綺麗だし、蜜蜂は怖いけど愛らしい
蜘蛛とゴキとムカデと蛇は苦手だ
…見れない、自分より強い生き物だってすぐ分かるから怖い
金魚や魚には水の中だから、本当に違う次元にいる感じがした
今でも
手には届くけど、わたしはずっと魚の様に泳げはしないから
人魚にでもならない限り、深い奥底には辿り着けない、息絶えてしまうから
だから、美しいのにマヌケぽいところが自分は見つめていても金魚にジーッと見られて目が合っても、何考えてるのか分からないから見られている感覚がしなくて落ち着いてた
人の目が怖かった時期は、そうやってわたしは金魚を眺めていた
それを思い出して昨日は花見というか、魚見をしてきた
金魚はやっぱ、この歳になっても何考えているのか分からない
でも、必死に息をしていた
だから、助けてあげたいお節介な気持ちが出たが、売り物って考えたらこの子にとっては本当の本当にお節介なのかも、と思えてその場を去った
その子は今頃、息をまだしているかな
それとも…
生き物は生き物だ
わたしも生き物で
生き物を通してわたしを知る
人間は人間だ
だけど人間は生き物だ
たまに人間は生き物であることを忘れる
この便利な人間のために造られた世界で生きてると、自分がひとりの生き物だという認識から隔離されてしまう
だから、わたしは生き物を通して人を知りたい
わたしの存在を知りたい
その気持ちはもしかしたら、素晴らしいのかもしれないし残忍なのかもしれない
世界は美しいし残酷って言葉があるくらい
それくらい知ってる
身近にそれは沢山あるから
金魚を飼いたくなったが、家に猫がいるから不可能でした
まだ、息をしててほしいとわたしは思ってるよ