色素沈着,淡い色日記

日常の一言二言が溢れ出て収まらなくなったのでブログ化しました

物語を作る過程

今年は脳内のイマジネーションと自身の体験を元に何かを創造したいと思ってる

 

それが何になるかはまだ定かだけれど…

できるだけ、躁になった時にそれを外側に向かって人様に迷惑をかけるより

アイデンティティの一つにできたらいいなというわたしなりの理想論

 

 

年を越す前に主治医との面談中、そういう話が出た

曰く躁状態を世の中に活かすことは可能なのかどうか

定義の話上、どうもそれは可能だと仰ってくれた

歴史上の偉い方々も皆大半そうらしい

彼等も現代社会でいう病という何らかのを抱いてたからこそ、歴史に名とものを残れる程に至ったんじゃないかという話をした

それが現代人まで知るくらいの偉人は相当な変わり者だろうよ、と。

 

 

わたしの主治医は他の医者よりもだいぶ変わり者だとわたしは勝手に思っている

放つ言葉は一つ一つに根拠があって重みを感じる

専門はパーソナリティ障害の精神分析

 

わたしの母親も精神科医だが、お互いに全く違うタイプの治療方針だ

 

 

あまり、有名な方の名を出すのもあれだが

当時マリリン・モンローの死を発見した彼女の主治医ラルフ・グリーンスンと同じタイプの医者だ

ラルフ・グリーンスンの生前に記してた本物が見つかったらしくそれを現在翻訳中だそうだが、その本が世に出るかは未だに分からない

 

 

それはさておき、

当時自称「家なき子」だったマリリン・モンローもパーソナリティ障害を患っていたが、見た目の美しさだけでハリウッドスターにはなれなかったはずだ

当時を知らないから根拠とかはないけどマリリン・モンローの出演した演技とかドキュメンタリーなどを見てると

狂う程努力してきたんだな…っていうのとこの人は元がどこか狂っていて所謂、自然体過ぎる程の放つ、

自分を見てと言わんばかりのオーラとかが彼女には画面越しでも感じて見える

それが、もしパーソナリティ障害から来た「興味、好奇心」だとしたら凄いと思うし、そうだろうなとも納得もできる

 

自分自身もマリリン・モンローと同じ

境界性パーソナリティ障害を抱えてるからこそ言葉では説明できないけれども共通した分かる感覚がある

わたしの場合はそれの二次障害が双極性障害だった

 

 

こんな病気や病名を言ってもだからなんだと、思われる訳だからどうしようもない

 

 

…みんな精神科に行ったらきっと何かしらの診断名が下るだろうから、このレッテルを敢えて自慢話の様に誇張するのは止めよう

 

 

とか思っても一度考え出すと止まらない脳だ

歴史とか政治とか哲学とか宗教とか美術とかを語り出すと止まらない所も含めて

自分は随分他とは並大抵以上に思考もやることもズレている少数派だという所に辿り着く

 

特に日本でだと合わせる文化で成り立っていて多数派が正義になり、

少数派は省く文化が漂わせてるからわたしのうなタイプは仕方なく隅っこに身を寄せて自分を小さくさせている

この社会での生存率を上げるためだ

完全に孤立するとdie・end

 

 

 

話を随分前に戻すと

この社会で生存率を上げる為に、躁は必ずという程来るからその時に、この不格好で残念な脳をクリエイティブな所へと活かし

できるだけ被害を避けれるようにしたいという話だ

 

根拠のない事を呟いててもしょうがないから、

あえてわざわざこんなところでも理想論を文章化している訳だ

 

何かを始めるとしたも躁率も上がってゆくから慎重に、そんなこんなな予期不安で一杯だが前には進みたい

 

 

理想を現実にするにはだいぶ苦労するだろうけど、それは全人口民がきっとそうだから

まず今年は身近にあることから地道にやっていこう

度胸や覚悟があっても根性無しにはやっていけない

 

 

 

 

しかし、困ったことに些細な日常はどう物語にすればいいか分からん

今までが波乱万丈だった人生だった故、今更お家で大人しくしてても出汁みたいな作品は作れるだろうか…

この感覚をどう活かせればいいのか

全てはその時その時なんだろうけど、身近なものへの感謝の対象が無さ過ぎて頭上の理想はあっても実践に移す事に難あり

 

…根性が無いとこうなるんだな…

作品や物語というのは「ありがたみ」から生まれる悟りだからこそ、

今はそこで四苦八苦している

 

 

 

 

 

宮崎駿

羽生結弦

IUも 

 

同じ様にこんな時期があったことをイマジネーションをしつつ

前向きにやっていきたいと脳内だけで忙しく暴走している

悩める日常を送りながら、

まだ生まれてすらいない夢見る芸術家がここに今一人います