もし、人生の大体の感情がスプーン1杯分だとしたらの仮定の説
一生涯に分泌される女性ホルモンの量が基本、
スプーン1杯分だと知ったときは驚きだった
…それだけなんだ、と思いながら
そういうもんなんだとも理解しようとした
もし今日の日常の中で、
鬱状態のわたしがマットレスに貼り付いている体を無理に奮い立たせ、よろよろしながらも
隔離してる部屋の保護猫にご飯をあげに行かなくちゃと義務と愛情を行動に移しても一緒にいても
食べ終わった後、全身で注いだ愛情も
この子からしら朝ごはんは起きれない主によって貰えなかった訳だから
何で朝ごはんくれに来なかったの?ずっと待っていたんだよ
と思われてもしょうがない
それはわたしが鬱状態だろうが、なんだろうが
全身で愛の形で撫でていようと
この子にとって感じる愛はスプーン1杯分なのかもしれない
そういう予測
その予測から辿り着くものは
ーもしかしたらわたしは親に愛されなく育ったと思っていたけど、
親は親なりの形でわたしを愛していたんじゃないか…と、最近思うようになった
不幸だったと過去を決めつけたらそれは本当になってしまう
でも不幸中の幸いもあったと思えたら、まだこれから先の生涯にも希望を持てるんじゃないか
そういう予測
幼かった当時のわたしは何も知らなかったから親の愛情を受取る心の度量がスプーン1杯分だっただけなのかもしれない
そう思えたのは当時から当分先の話だけど
そういうもんなのかな、と世の理を考える
わたしたちの眼に見えるものは
自身の都合上の解釈によって見える世界
本当のことは誰も知らない
その人のことは本人にしか分からない
伝えたい気持ちも
受け取る気持ちも
随分、大人になって上から客観視できないと勝手に解釈してしまう
世の中、思ってる程そんなに上手く出来てはいないからみんな都合のいいハッピーな物語を作りたくなる
伝わらない気持ちが悲しくて寂しくて、伝え方が分からなくなった時にその悲しみや寂しさは怒りの感情コードに変換され憤る
どうか、この思いが伝わってほしいと
切実に思う程、見える感情コードは相手に変換されることなく相手への不満として受取られる
それが大半だとしたら、悲しみの気持ちがスプーン1杯分も伝わるのはかなり後ほど…
受取るのは感情は自分主体のものばかり
親と子の気持ちのすれ違いのように
与えるさじ加減は主君による
受取るさじ加減も自身による
未来は誰にも分からない
決め付けたくもない
過去に縛られたくもない
だけど、大体の感情はスプーン1杯分程度だと思えたら少しだけ楽に過ごせるのかな
と思った