今日も私は異端者でした
私の周りも、和になってじゃれ合って笑って誤魔化しては異端者でした
みんなが笑えて幸せならいいよね、
と今を必死に楽しんでいます
それの何が悪いのかと問われたら、今の時代反論はなく平和主義の私だって笑って誤魔化すでしょう
それでも気付いていながら気付かないふりをするのは、平和な世界を必死に守るために闘う正義心だと思っています
不誠実だと思ってしまう自分がいます
何処かでそれが許せない非現実者がここにいます
島国だからでしょうか
お盆もクリスマスも大晦日もお正月もハロウィンも、ごちゃ混ぜの紫色のチャンポンを美味しいと錯覚して食べているのは
あっちにもこっちにも帰る場所があって私たちには自由という名の通り様々な選択肢の中で今日はこのお家に帰り、ある日はあのお家に帰ることも不自然なく可能です
一途とか純粋とかよりも、今の私たちには「自由」度の幅広さを追い求めて追求しています
“罪悪感なんか抱かないよ、だってみんなそうして過ごしているんだから
そう紛らわせて日常の中で非日常をエンジョイしてるよ
せっかく生きてるなら、できるだけ美味しいご飯を食べて自分らしくありたい
それが普通じゃない?”
当たり前になってしまった甘い言葉が耳にタコができるかのように常に生活の一部として重なってしまっています
そんなことが当たり前にできたら、私もきっとこんなことをこんなところで呟きはしないだろうなと思いながら表よりも裏側に答えを探しに1人だけ後ろに向かって歩いています
日常の中で迫られる紙一重の選択に、その道の先は正反対で時に自分が選んだことすら忘れて人のせいにしては哀れみます
タチの悪い私は上から目線で楽しそうに笑っている人々を見下しては、その時をその快楽に身を委ねていて過ごしている人達を眺めながら、私だけはそうじゃないと言い聞かせては客観的に自分すらも見下した時に他の人と何も変わらないじゃないかと悲観します
許される需要と許されない許容範囲は人間社会が求めた結果にすぎず、その社会の言いなりになって事が起こったら社会が決めたルールの言葉で非難してもいいと決めつけてまるで他人事の様に楽観的でいられるけれど、
自分ではなかなか決められない目には見えないものを、誰かに委ねて責任を放棄したくなる時があります
人は移り変わるもので、決して分からない未来とか将来のためなら何だってする浮気者だと認識しています
比喩表現の中の浮気という概念には、決して責任を問われることはありませんから、無自覚の内にそれでも現実の生活で負い目を抱きながらそれでもより良く生きていきたい人の本能機能として異端者にならざる得ないのでしょうか
私には帰る場所がたくさんあります
いえ、あるように見えて何処にも帰れる居場所はないみたいに感じます
私の中で決まった秩序はなかなか崩れることはできないことに嘆いたりもするけど、そこに生き甲斐も感じる日常の中に暮らしています
心の拠り所は今の人間社会のように開拓して作り上げるものです
恐れ多い私は、そんな社会とこんな私を認められず許せない葛藤の中、楽しそうに笑い合っている人たちを眺めては虚しい気持ちになり完全たる真理と言う名の自分の世界に1人閉じこもりたくなるのでした
貴方の一日はどんな色をしていましたか?
満足できた今日と言う名の日常でしたか?